ātmānubhava(アートマー・アヌバヴァ)

「ヨーガやヴェーダーンタの教えを学べば、何か特別な修行法や精神的な訓練によって、啓示を受け取ったり、神秘的で至福に満ちた状態へ到達できる。」
このように多くの人は「超越的な体験」を得られると誤解します。
ヨーガ(パタンジャリ系)の目的は、心の働きを静め、対象に集中し、最終的にサマーディ(三昧)へ至ることです。
しかし、ヨーガのサマーディにおいては、プルシャ(真我)やアートマー(自己の本質)が何であるかという最終的な理解には到達できません。
なぜなら、真我や自己の本質は「体験」することによって得られるものではないからです。
サンスクリット語には「アヌバヴァ」という言葉があり、「experience(体験)」と訳されますが、これは不十分です。
アヌバヴァとは「自己知識」であり、すべての体験の根底にある本質を指しています。
「アートマー・アヌバヴァ」という言葉を「self-experience(自己体験)」と訳すと、自己の本質があたかも体験できるかのような誤解を生んでしまいます。本来の意味は「直接的な自己知識」です。
どれほど神秘的で超越的な体験をしても、それが自己の体験であることはありません。
体験するとは、主体と客体が分かれている状態です。
客観的に体験できているということはあくまでも客体であって主体ではありません。
自己の本質は主体です。
客体しか体験できないのです。
たとえば、ニルヴィカルパ・サマーディは心の働きが完全に鎮まった状態であり、思考や概念がすべて止み、純粋意識だけが輝いているように感じられます。
このとき、多くの人が「アートマーを直接体験した!悟った!」と勘違いしてしまいます。
そこで重要になるのがヴェーダーンタの学びです。ヴェーダーンタはヴェーダの結末であり、結論である教えです。その目的は「アートマー(真我)とブラフマン(全体)が一つである」という知識を得ることにあります。そしてその知識は、師と聖典によって伝えられます。
この知識は、一時的な心の静まりではなく、「常にそうである」という明確な自己認識を確立します。ですから、サマーディそのものが解脱(モークシャ)ではありません。サマーディは心の状態にすぎず、解脱は「アートマー=ブラフマン」という知識の確立なのです。
ヨーガの実践とヴェーダーンタの学びは、鳥の両翼のように互いを補い合います。ヨーガの実践に偏れば、体験を重視するあまり知識を軽視する危険があります。逆に、知識に偏れば、心を整える実践を軽視してしまいます。
ヨーガの実践は心を道具として整え、集中力を養い、内面を静かにすることで、ヴェーダーンタの学びを大きく支えます。一方、ヴェーダーンタは「私はすでに自由である」という真実の理解を与えてくれます。
サマーディを目指すヨーガは、心を道具として整える訓練。
ヴェーダーンタは、「私はすでに自由である」という真実の理解。
どちらか一方では不十分であり、両者を組み合わせることで実りが深まります。










