導くことと、コントロールしようとすることの違い

人と人との関わりの中で、「導く」ことと「コントロールしようとする」ことは、一見似ているように見えるかもしれません。しかし、そこに流れている心の質はまったく違います。
おこがましいですが、先生という存在は導く存在だと思います。でも、いつのまにか自分の価値観を押し付けたり、コントロールに繋がることがあります。
まず、コントロールしようとするときの心には、こんな特徴があります。
動機は「相手を自分の思う正しさに従わせたい」という気持ちです。態度として現れるのは、批判や強制、押し付け。背景には、不安や罪悪感、そして承認欲求があります。「こうしなければダメだ」「従わなければ危ない」という恐れに突き動かされているのです。
その結果どうなるかといえば、相手の自由を奪い、抵抗や反発を生みます。たとえ表面上は従ったように見えても、内面には反感が募っていきます。ここでは、相手をひとりの尊重すべき存在としてではなく、「コントロールすべき対象」として見てしまっているのです。
一方で、「導く」ことにはまったく違う動機と態度が流れています。動機は「相手の可能性や成長を信じ、寄り添いたい」という思いです。態度は提案や模範、励ましという形で表れます。背景にあるのは、信頼と愛、思いやり。「相手には自分で気づく力がある」という信念です。その結果、相手は自分で納得し、自ら進んで変わっていく。自由と主体性が守られたまま変化が起こるのです。ここでは、相手を「尊い存在」として見ていて、尊重と自由がしっかり基盤になっています。
ヨーガ的に言えば
コントロールは、ラジャス(激質・不安・比較・執着に基づく行為)
導くは、サットヴァ(静けさ・穏やかさ・安心・理解・受容に基づく行為)
バガヴァッド・ギーターは「結果に執着せず、他者のダルマを尊重する」ことを説きます。
「導く人」は相手の変化を急がず、結果を委ねながら自分のダルマを生きる人です。
コントロールは「相手を変えようとする力の方向」で、導くは「相手が自ら気づくのを待つ態度」
自分に自信がないとき、執着・不安が強いときなどは、ついコントロールに向かいがちになってしまうので、寛容に心を柔らかく保ち、成長を安心して見守れるような実践をしていきたい所存です。








