果実が実ると、すべての花びらが散る。

ジーヴァン・ムクティ(内なる自由)とは、軽い心、楽しい心、重荷にならない心です。

ジニャーニー(知識を得た人)は、重荷となる心から自由な人だと言われます。

ジニャーニーの心は、とても軽いので、彼はその存在に気づいていません。

体のどの部分でも、健康なものは、それに気づいていません。

例えば、膝に痛みがなく、問題なく機能していれば、その存在に気づかないでしょう。

しかし、痛みを感じているときは、その存在感に気づきます。

健康なものは、その存在を感じませんが、痛みや問題があると、体の存在を感じます。

心配や不安や恐怖がある限り、心の存在を感じます。

身体も心も健康であるほど、その存在が薄まり、軽い身体と心で世界を味わえます。

ジニャーニーの場合、心配や不安や恐怖を克服していて、とても軽いので、その存在を感じることはありません。

そのため、ジニャーニーにはマノーナーシャ(心が破壊されている)があり無感覚だと思われてしまいます。

しかし、実際にはそうではありません。ジニャーニーは素晴らしい心を楽しんでいます。

ジニャーニーは、自分自身に満足している人です。幸せになるために外側の要因を必要としません。

生き残るために食べ物や衣服などを必要としますが、幸せのためには必要としません。

そして、自分の中に満足感があれば、どんな結果が生まれるでしょうか?

クリシュナは、サルヴァ・カルマパラ・テャーガ(全ての行動の結果の放棄)と言います。

つまり、すべての期待を放棄することです。

欲望は何から生まれるのでしょうか。

私が自分自身を完全な人間と見なさず、不完全とみなすことで欲望が生まれます。

そのとき、私はアプールナットヴァム(不満感)を見ています。

欲望はそれ自体が病気ではなく、不完全さの感覚の症状です。

ジニャーニーも周囲に人がいたり、さまざまなことがあるかもしれませんが、軽い心で、依存もなくそれらを楽しみます。

依存になってしまうと、それらの人や物や事が精神的な杖になってしまうでしょう。

カーマ(欲望)は不完全さの感覚から生まれた依存関係を意味します。

ジニャーニーは、欲望を無理やり押しのけたから満足しているのではありません。

物事に無理やりNOと言うと抑圧になります。

欲望の減退は、プールナットヴァム(満足感・充足感)の発見から生まれなければなりません。

それは自然に起こるでしょう。

果実が実ると、すべての花びらが散ります。